誰もが運転したいわけじゃない




 パジャマに着替えていた息子が、何かの弾みで転んで顔をぶつけた。泣きながら起きあがった息子の目に血が滲んでいる。目玉が傷ついていたらたいへんだと、焦った。
 総合病院に電話する。とにかく連れて来いという。怪我をして動揺している幼子を、寒空の下自転車で運ぶのはしのびない。タクシー代は手元にあるか。上の娘はどうする。細君と一緒に留守番させるか。
 あたふたしているうちに、息子が泣きやみ、出血も止まった。目玉にも異常はなさそうだ。気を落ち着けて、一晩様子を見ることにした……。
 クルマがない生活をしていて、不自由するのが、まさにそんなときだ。
 いざというときのために、クルマを所有したほうがいいかもしれない。けれども、クルマに頼りきった生活はしたくない。そんな2つの思いの狭間で、ずっと迷い続けている。


●事故の加害者になるのが怖い

 昨年春、東京都内から今の土地に引っ越すときに、クルマを買わなくて大丈夫かと、ずいぶん悩んだ。まちで育った細君は、あまり深刻に考えなかったという。引っ越してきて面食らったのは言うまでもない。
 なにしろ近所のお宅はどこも、最低2台のクルマをもっている。日常の買い物、役場への用事、子どもの送り迎え、学校行事への参加など、何をするにもクルマ、クルマ。クルマはまさに生活必需品だ。
 実際、クルマなしだと不便が多い。ストーブをネット通販で買ったのはいいが、灯油を入れるポリタンクを扱う店は5キロ先。自転車で行けても、ポリタンク2つは運べない。そんな些細なことにも難儀する。
 博物館に行きたい。ショッピングセンターで買い物をしたい。ちょっと遠くの公園に行ってみたい。交通の便が良くないので、どれも実行するに一苦労だ。細君は、いつも娘の友だちをうちに呼び、帰りはクルマで迎えに来てもらうので、先方にばかり負担をかけていると負い目を感じている。
 それなのに、未だにクルマをもたない大きな理由は、ぼくが運転に自信がないからだ。自動車教習所で受けた適性検査で、「うっかりミスが多いので充分気をつけること」といった内容の結果が出た。以来、ハンドルを握るたびに、いつか大きな事故を起こすのでは、という不安がつきまとっている。自分のミスで、周りの人を取り返しのつかない事故に巻き込むのが怖いのだ。
 運転免許をもっていない細君は、クルマの必要性を認めながらも、経済的な理由と、いたずら盛りの息子を連れて教習所には通えないと、運転免許取得をためらっている。


●誰もが暮らしやすいまちを

 ぼくや細君のような事情や心情を抱える人は、世の中にたくさんいるはずだ。
 危なっかしい運転をしている人を、この辺ではよく見かける。注意散漫、判断不良のドライバーと出くわして、ひやりとすることもしばしばだ。そういう、はっきりいって運転に向いていない人たちも、住む所によってはやむを得ず、あるいは当然のように免許をとり、クルマを運転する。それ以外の選択肢がない状況は、当人にとっても、周囲にとっても不幸だし、リスクが大きい。
 「運転は慣れだ」という声もあるが、道路事情も個人の心情も省みない安易な意見には、クルマ社会の住人の傲慢さを覚える。
 クルマが広く普及しているからといって、クルマを利用するのが当然と考えられる社会は、正しいとは思えない。運転適性のない人はどうなのか。運転を“卒業”した高齢者はどうするのか。子どもたちはどうなのか。怪我や病気で運転ができない場合はどうすればいいのか。
 そんな誰もが問題なく暮らせるよう、行政はバス路線の充実や、タクシーの割引、歩道・自転車道・自転車走行帯の整備などを進めたらどうだ。商業施設、文化施設も、送迎バスやクルマ以外の交通手段利用者へのサービスを考えたらどうなのか。
 地元のインターネット掲示板には、10歳代と思われる世代からの同様の意見がよく載っている。運転免許をもたない子どもたちは、クルマ社会の不条理を実感しているのだ。
 ぼくは彼らの素直な見方に寄り添いながら、自分たちの生活の場の現状を見つめていきたい。

(2004年12月記・草土文化「子どものしあわせ」2005年3月号)



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