もっと「言葉」を



 「言葉」が軽い。軽すぎる。
 
 世界をリードする超大国・アメリカの大統領ともあろう人物が、他のれっきとした独立国家を、「ならずもの国家」「悪の枢軸」などと、薄汚い呼び方で罵倒する。「大量破壊兵器を持っている」と、薄っぺらな根拠で決めつけ、「我々は正義だ」と、傲慢な主張をしながら軍事侵攻する。そして、多数のイラク人を殺しておきながら、「イラクを解放した」と厚顔にも宣言する。
 それらの「言葉」に、どれだけの重みがあるというのか。どれだけの説得力があるというのか。
 人々を説得し、共感を与え、支持を得るのに必要な、深い思想と、苦悩と、説得力が、それらの発言からはおよそ感じ取れない。ブッシュ大統領が発する数々の「言葉」は、空恐ろしいまでの想像力の貧困と、思想の浅さを浮き彫りにしている。
 ブッシュが大事にしているのは、「言葉」ではない。軍事力や経済力などの物質的なパワーだ。
 
 そんなブッシュを、真っ先に支持したのが、日本の小泉首相だ。
 世論調査では、国民の八割が武力行使に反対しているにもかかわらず、コイズミは「世論に従って政治をすると、間違う場合もある」と言い切った。
 しかし、世論がどのように間違っているのか、どうすることが正しいのか、彼が誠意をもって説明した記憶はない。
 ここでも、「言葉」が軽視されている。言を尽くして人々を説得すること、人々の信頼を得ようと努力することを、ハナから放棄している。
 絶妙なバランス感覚と、「何かを変えてくれるだろう」という妄想的な期待に支えられるだけの、張り子のトラ。それがコイズミだ。
 
 アメリカとともにイラクに軍事侵攻したイギリスでは、ブレア首相が国民(国会)に対して、イラク侵攻の「正当性」を説明し続けたという。英国民はその説明に納得せず、結果的に政府支持率が低下するという事態を招いている。「納得できない」と辞任した閣僚もいる。それでもブレアは、政治は言論によって成り立つという姿勢を、ギリギリまで保ち続けたのだ。
 軍事侵攻したことは賛成できないものの、ブレアの「言葉」を軽んじない姿勢は、まだ評価できる。
 コイズミは、政治家として、ブレアを見習うがよい。
 
 日本の政治家は「言葉」を軽視している。平気でウソをつく。他人の意見に耳を傾けない。議論をしないで談合ばかりしている。言論の場・国会で他人が書いた原稿を棒読みする。軽々しく前言を撤回する。公約を簡単に破棄する。憲法の条文を勝手に解釈する、あるいは無視する……。
 彼らは、多数派に身を置き保身を図ることばかり考えている烏合の衆だ。彼らが大事にしているのは、権力と、数の力と、エゴイズムだ。
 
 「言葉」を軽視しているのは、政治家だけではない。政治家は国民の鏡だ。
 あの程度の政治家しか選べない国民こそが、もっとも「言葉」を軽んじているのだ。
 日々、「言葉」を使うことに対して、どれだけの神経を使っているだろうか。
 「話し言葉」と「書き言葉」とがあるが、そのどちらも、話し手(書き手)と聞き手(読み手)との間で意志疎通を図るためのものだ。互いの考えを伝え合うこと。相手が何を考えているかを知り、相手に伝えたいことを伝える努力をすること。分からないことは質問し、確認し、時に議論をし、妥協点を見いだし、そうして互いの関係を築き、深めていく。そのために、「言葉」が必要なのだ。
 ぼくらは、「言葉」をそのように使っているだろうか。「言葉」と真剣に向き合っているだろうか。
 
 テレビやラジオは二四時間とぎれることなく電波を発し、インターネット上には目もくらむほどの「言葉」が掲示されている。携帯電話での会話、電子メール。それこそ数えることが不可能なほどの無数の「言葉」が、時々刻々と交わされている。
 しかし、そのほとんどが、その場限りで使い捨てされている。思想も説得力も責任感も乏しい、表面だけの薄っぺらな「言葉」が、浪費されている。
 話していて楽しくなる会話、息抜きのためのおしゃべり、酒場のホラ話があるのはいい。他愛のない無駄話やジョーク、世間話。それらが一切不要だ、というつもりはない。
 ただ、それにしても「言葉」を粗末に扱いすぎていないか、と問いかけたいのだ。
 
 「言葉」とは、そんなもんじゃない。
 「言葉」には、ものすごい力があるんだ。
 それは、他人の心を揺り動かすことができる力。
 他人を変えていくことができる力。
 自分を確かな者にしていく力。
 自分と他者とを結びつける力。
 その繰り返しによって、人間関係を、そして世の中をも変えていくことができる力。
 そういう力をもった「言葉」を、ぼくたちは、取り戻さなければいけない。
 
 でも、どうやって取り戻せばいいんだ?
 たぶん、簡単なことだと思う。
 「言葉」をもっと意識すればいいんだ。
 
 書いたり話したりするときに、「この単語を使って、相手に内容が伝わるか」と、立ち止まって考えてみる。「意味は正しいか」「使い方は正しいか」と、自分が選んだ「言葉」を疑ってみる。そうして、もっとも適切な「言葉」を選択する。
 人の話を聞いたり読んだりするときも、相手が伝えようとしている真意をくみ取るよう、注意を払う。字面や言葉尻をとらえて、分かったつもりにならない。「言葉」の前後にあるニュアンス、背後にある事実関係をつかみ取ろうと試みる。
 また、マスコミが伝える報道の数々を疑ってみる。マスコミ(役立たずの情報ばかり伝える「マスゴミ」ともいう)のいう正悪・真偽を鵜呑みにしないで、自分の良心に照らしてみる。
 こういうちょっとしたことの積み重ねが、「言葉」に対する感度を高めていくと思うのだ。
 
 「言葉」に注意を払うようになれば、使う「言葉」を選ぶために、自分の考えを見つめ直すようになる。
 相手の「言葉」を理解するために、相手の心情にも思いを及ばすようになる。
 そうして心の感性が、たぶん、どんどん研ぎ澄まされていく。
 その結果、より深いコミュニケーション=相互理解ができるようになっていく。
 多くの人が、少しずつ、コミュニケーション能力を高めてゆき、「言葉」の重要性、対話の必要性を、誰もが認識するようになれば、身近なものから国際的なものまで、多くの社会問題が徐々に解決されていくのではないか。
 
 「言葉」を大事にするためには、言ったこと、話したことに責任をもたなけらばならない。これはシンドイことだ。
 「言葉」をその場限りのものとして、あまり考えずに、適当に使っていいのなら、そのほうがずっとラクだ。
 でも、そうやって「言葉」を軽視してきた結果が、いまの有様だ。
 多くの人が、自分のことしか考えない。言ったことに責任を持たない。信念と行動とを一致させない、いや、そもそも信念をもたない。深く考えず、何の行動もせず、誘(いざな)われるままに流されていく。大きなうねりに身を任せるだけで、己を見失っている。一人の人間としての自分を、ないがしろにしている。
 それでいいのか。いまのままでいいのか。
  
 「言葉」を選ぶこと、相手の真意をくみ取ろうと注意を払うことは、決してラクじゃない。
 でも、耐えられないほどの苦痛でもないだろう。
 一人の人間として必要な、たしなみの一つ、だと思う。それくらいの努力は、したほうがいいのではないか。
 
 まずは、いままでよりほんの少しよけいに、「言葉」を意識して使ってみよう。自分の「言葉」で考え、書き、話そう。自分の「言葉」に責任をもとう。そして、自らの意思で行動しよう。
 こんなちっぽけな意識改革が、世の中全体に対してどれほどの意味をもっているのかは、ほんとのところ、ぼくにもよくわからない。でも、そんなのどうでもいいじゃないか。
 自分の考えをもって行動することは、とても立派だし、大事なことだ。それができる自立した人が、たくさん集まって成り立っている社会は、現状よりもずっとマシなはずだ。そういう社会に、ぼくは生きたい。
 
 カネの力(経済力)や暴力(軍事力)では、人を説得することはできない。カネで頬をひっぱたき、鉄砲を突きつければ、その場で屈服させることはできるかもしれない。しかし、そういう行為をはたらく者を、信頼し尊敬することなどできないのだ。
 信頼関係のない社会ほど、悲惨なものはない。
 人と人とが信頼関係を築くためには、「言葉」の力を信じる以外に道はない。
 
 声を大にして言いたい。

 「言葉」をもっと大事にしよう。
 「言葉」の可能性を信じよう。

(2003年6月・投稿誌『言わせろ』82号)

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