クルマ中心社会で思うこと




 娘の友だちが交通事故に遭った。
 その子は小学3年生で、サッカー教室の練習に行く途中だった。いつものように1人で、いつも通っている道を歩き、横断歩道を渡ろうとして、クルマに跳ねられた。骨折などはなかったが、頭を強く打ち、救急病院へ。その晩は意識不明、翌日意識は戻ったが、時折激しい頭痛と嘔吐。2週間ほど入院し、様態が落ち着いてきたので退院し、自宅休養。1週間後の精密検査を経て、登校を再開した。
 親御さんから聞いた話だと、その子は事故の前後のことをまったく覚えていないという。けれども、退院後に外を歩いていて、交差点で「なんだか怖い」と訴えたそうだ。

 その子が住んでいる土地、つまりぼくら家族が最近引っ越しするまで住んでいた土地は、東京都内の住宅地で、歩道も横断歩道も信号も整備されている。クルマの走行量は多いが、特段にマナーが悪いような土地柄ではない。
 なのに、小学3年生が1人で歩くこともままならないことを改めて知り、愕然とした。

 いまぼくらが住む土地は、クルマの総量は前の土地よりも少ないものの、マナーがひどい。信号が赤に変わってからクルマが交差点に突っ込んでくるのは“普通”のことだ。
 加えて道路も、幹線道路はともかく、一歩脇道にはいると、路肩でさえロクにないような道がたくさんある。そういうところを、クルマをサンダル代わりに使っているヘタクソなドライバーが、緊張感のない、だらけた顔で運転している。

 先日、家族揃って自転車で買い物に行った。幹線道路の歩道を走っていたが、ところどころに、拡幅工事中で路肩を走らざるを得ない部分があった。先頭を走っていたぼくは、時折振り返り様子を見たが、体をこわばらせながら自転車を漕ぐ娘の脇を、クルマが次々と高速で走り去る様に、肝が凍る思いをした。
 ある箇所では、歩道に停車しているクルマがあり、通れなかったので、対面の歩道に渡ろうと、やむを得ず道路を横切った。その途中で、向こうから1台のクルマがかなりの速度で走ってきた。娘はそのクルマを見てビビり、ブレーキをかけて立ち止まる。細君が「早く行きなさい!」と怒鳴って娘を走らせ、クルマも娘に気づいて減速したので、事なきを得たが、背筋に冷や汗が流れた瞬間だった。
 自転車で片道30分ほどの距離。帰ってきて、体にそれほど疲れはないが、心がヘトヘトになってしまった。

 臆病なぼくは、子どもらが交通事故に遭う姿を思い浮かべることがある。クルマに跳ねられ、アスファルトに叩きつけられ、どくどくと血を流す娘。ダンプにグシャッと踏まれる息子。そしてどちらも声をあげなくなる……。そんな姿を思うたびに、叫び出したくなるような恐怖感を覚える。
 娘の友だちが交通事故にあったと聞き、ますますリアリティを伴って想像されるようになった。
 クルマの運転手は、そういうリアリティを、自分のものにした上で運転をしなければいけない。のんべんだらりと運転していると、いや真面目に運転していてさえも、自らが加害者になる可能性があることを、常に意識しなければいけない。
 必要なのは、「もしもあの角から人が出てきたら」「ここにクルマを停めたら」「この速度で走っていたら」「もしも自分が人を跳ねたら」「自分の身内が事故に遭ったら」と、さまざまな可能性に思いを巡らす「想像力」だ。

 いま多くの人々は、何事においても、現実を知ること、状況を思う(想像する)こと、現象の意味を考えること、を怠っている。手の届く範囲、目に見える範囲の現実がすべてで、その外側のことは知ろうとしないし、想像しない、関心もない。せいぜいが、テレビで見たことや他人から聞いたことを、深く吟味することなく受け入れて、オウム返しのように「知った振り」をするまでだ。思想の底は恐ろしく浅い。いや、思想などない、のかもしれない。
 クルマ社会を問い直す運動は、そんな状況を問うところにまで迫らないといけないと、つくづく思う。

(2004年7月・クルマ社会を問い直す会会報第36号)



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