「平和ボケ」をどう思う?



 イスラエルに留学中のU太郎くんから、
 「平和ボケ」についてどう思うかと、質問が届きました。
 以下、“問答”というより、自説の披露になってしまいました。




2002年6月29日
U太郎くん → うめざわ

いかがお過ごしでしょうか?
今日はうめざわさんに質問です。

よく日常的に使われる単語についての質問ですが、“平和ボケって何よ?”と聞かれたら、どう答えますか?

それと日本はよく日本国民によって“平和ボケしてる!”と言われるのを目にしたり、聞いたりしますが、日本以外に平和ボケしてる国ってありますか?
もしあるとお思いでしたら、その国名を挙げてください。
それと理由も。

それともう一点、もし日本が平和ボケした国であるとお思いでしたら、どうしたら平和ボケした国でなくなるとお考えですか?
具体例を挙げて述べてみてください。
例えば!

 徴兵制を導入する!
 全国民に格闘技を義務化する!
 バトル・ロワイヤルのBR法を実現してみる!
 小学校で軍歌の練習もしてみる!
 中高のカリキュラムに“有事”という科目を加えてみる!
 しかもセンター試験はそれを試験科目とする!
 君が代だけのコンクールを開いてみる!
  等等…

なぜこのような質問をするかと言うと…だいぶ前の事ですが、、友人のメールに以下のような言葉があり、どうも引っかかってしょうがないのです。

“平和ボケした日本人達は、今サッカーで盛り上がっている”
(注!ぜんぜん原文のままではありません)

私が思ったのは、
“平和なんて最高じゃんか!それに浸って何が悪い! サッカーだって開催国やそれ以外の国でも狂ったように盛り上がるじゃないか! 日本人だって盛り上がって何が悪いよ! だいたいご近所さんと殺し合いしまくってる狂った日常で生きてるより、制裁とか言いながらとてつもない爆弾をピンポイントと言いつつ住宅街に落とす超大国であるより、平和でノホホンしてる方がよっぽどマシ!むしろ道徳的!”
と思いつつも、
“はて?ところで日本ってそんなに平和ボケしてるわけ?”
と疑問が湧いて来たのであります。
有事法制が成立しそうになった時も、ちゃんとそれに反対していた人たちもいたし、阪神淡路の震災時も多くのボランティアが駆けつけたではないか!
果たして日本人の意識って平和ボケしてると言われるほど、他の国の人たちと違うのでしょうか?
(注!もちろん以上のような行動が平和ボケしてないといった明らかな理由になるとは考えておりません。ただ危機に対して無関心ではない事は明らかであると言えると考えています。)

確かに日本は長い間、平和を享受してきたというのも事実でしょう。
しかし平和の中に暮らしたいという願いは、世界中のどの国も同じなのではないでしょうか?
もし“世界中に平和が訪れる!”という目標を達成できたら、後には人類が平和ボケするのでしょうか?だとしたら日本人は理想世界のモデルタイプ?
ワケわかんねぇーよぉー!

そんな所でうめざわさんの“正直言って日本人のここがさぁ…”といったご意見をお待ちしております。
別に急ぎではありませんので、お仕事の合間を見てご返答いただけたら幸いです。



7月1日
うめざわ → U太郎くん

“平和ボケって何よ”とは、決して軽くない質問をされ、不意をつかれてとまどっています。う〜ん。
考えまとめるまで1、2週間かかるかもしれませんが(仕事の追い込み時期でもあるので)ぼくなりに回答をまとめてみます。

いま思ったことを1つだけ。
「平和」は存在するものでなく、獲得するもの、または「国民の不断の努力によって」維持するもの、でしょう。
現状に甘んじて、平和を獲得・維持する努力をしないことを“平和ボケ”というのかも。
慣れ、とか、甘え、と言い換えてもいいか?

もっときちんと考えます。
しばし猶予をください。



7月2日
U太郎くん → うめざわ

落ち着いてからのご返信、お待ちしております。

> 「平和」は存在するものでなく、獲得するもの、
> または「国民の不断の努力によって」維持するもの、
> でしょう。
> 現状に甘んじて、平和を獲得・維持する努力をしないことを
> “平和ボケ”というのかも。
> 慣れ、とか、甘え、と言い換えてもいいか?

私もおそらくこの線で考えていかれるものと思います。
ただあまり必要以上に考え込むと、言葉の遊びに終わってしまうような気もするので、その点に注意して自分なりの答えを出したいと思います。



7月18日
うめざわ → U太郎くん

こんにちわ。
またテロがあったようですね。
アラファト外しをするとかしないとか、各国が話し合っているデリケートな時期に、よくもやってくれるものです。

さて、「平和ボケ」について、ようやく考えをまとめました。
長文になりましたが、ご容赦ください。


 まず、U太郎くんからの質問を整理しますね。
1)“平和ボケって何よ?”と聞かれたら、どう答えるか。
2)日本以外に平和ボケしてる国はあるか。
3)もし日本が平和ボケした国であるとしたら、どうしたら平和ボケした国でなくなると考えるか。
 この3つということで、いいですね。
 で、最初に断っちゃいますが、2)については、ぼくは回答できません。生まれてこの方ずっと日本で暮らし、海外旅行にすら行ったことないので、他の国の事情を知らないからです。メディアを通じて入ってきた情報でもって「あそこはボケてる」とか言えないです。
 なので、1)と 3)について、考えてみます。


 ぼくは「平和ボケ」ということばを意識して使ったことは、たぶんこれまでないです。そのことばの意味を知らないからです。
 知らないことを考えるには、まず知ることが大事です。
 ということで、近ごろ目にした文章を、2つばかり引用します。

 まずは、新聞の投書です。オウム真理教(現・アレフ)事件関係の裁判に時間がかかりすぎると、71歳のおじいさんが怒っています(2002年7月8日毎日新聞)。
「やったことの重大さから誰もが即刻、断罪されて当然と思っている」「もし仮にこれが外国だったら、このようなことはないだろう。あまりにも怒ることを忘れた平和ボケの一種なのか」
 “怒ることを忘れた平和ボケ”なのか、“怒ることを忘れた、平和ボケの一種”なのか、判別できませんが、どっちにしても、“怒りを抱かない状況”が平和ボケであると、このおじいさんは指摘しているようです。

 次に、ある市民運動団体の会報にあった投稿です。
「あのNYでの超巨大テロから既に9ヶ月になったが、現在も全世界の各地でビルの破壊は続けられている。アフガンやパレスチナのことなど市井では話題にもならず、せいぜいムネオやマキコ、サッチーのことくらいしか話題にならない“平和ぼけ”の日本でもビルの破壊は激しい」
 渋滞解消目的の道路拡幅のためにビルを取り壊しているが、クルマのためにそこまでするのか、と、この人は立腹しています。
 こちらは、社会問題に目を向けず、スキャンダルばかりに関心を持つ状態を「平和ボケ」としているようです。

 共通しているのは、どちらの投書子も問題意識を持っていること。そして、同じような問題意識を持たない世間なり周囲に対して、「平和ボケ」という呼称を用いています。
 《平和ボケした日本人達は、今サッカーで盛り上がっている》と主張するU太郎くんのご友人も、たぶん同じようなニュアンスで使ったのでしょう。

 現実に疑問や不安、脅威を感じ、「これでいいのか」と思っている人が、そういうことをな〜んにも考えず、のほほ〜んと生活している(と思われる)世間の人々に対して、苛立ちと覚えつつレッテル張りするためのことば。
 ある意味、世間はボケているが自分は違うんだ、というニュアンスを含むことば。

 みんなが使っている「平和ボケ」って、だいたいこんな意味でしょうか。


 でも、なんかこうスッキリしませんね。
 「平和」は尊いもの、あるべき状態ですよね。それに「ボケ」というマイナスイメージのことばを続けてどうしようというのか。なぜ「平和」をマイナス化しようとするのか。
 「平和」だとボケる、という意味合いが、「平和ボケ」ということばには、ある。まるで「平和」がいけないと言っているようなものです。
 そこが納得できませんねぇ。
 《平和なんて最高じゃんか!それに浸って何が悪い!》に、同感です。

 「平和」というと、たぶん多くの人が、「戦争状態でない」というイメージをもちますよね。
 「平和ボケ」という場合も、概して、「戦後50年、戦争にも巻き込まれず、天下泰平、安泰の日常を過ごしてきた」ことに対する批判のニュアンスを含んでいます。
 でも、「平和ボケ」といわれる現象・風潮は、何も、日本が「戦争状態でない」という意味での「平和」だから起こっているものではないです。
 第二次大戦後に掲げた復興という大目標。それを達成すべく邁進した高度経済成長。世界経済のトップグループに追いつき、目標を失い迷走したバブル経済。それが破綻し今日まで続く不況状態。
 希望の時代、達成感の時代、迷走の時代、自信喪失の時代と、いくつもの時代を経た末に、今日が存在します。
 人々の精神状態は、その時々の時代状況に影響を受けています。今日、先行きに展望が見いだせず、希望が見えず、漠然とした不安を抱く人が多いとしても、おかしくないでしょう。こういうときに、現実を直視しないで刹那的に生きようとする風潮が蔓延するものです。世紀末現象、というやつです。
 何をいいたいかといえば、つまり、日本という国が戦後半世紀にわたり歩んできた結果として、今日の風潮が醸し出されているわけです。
 経済状況、社会状況、教育システム、国際関係……、さまざまな要因が複雑に絡み合い、今日「平和ボケ」といわれるような風潮が作られてきたのです。
 そういうもろもろをとっぱらって、戦後50年をたんに「戦争がなかった=平和」と乱暴に一括りにして、「平和」だから「ボケ」たんだ、と、これまた乱暴に決めつけるのが、「平和ボケ」ということばです。

 そもそも、戦後半世紀は本当に「平和」だったのか、という疑問もあります。隣国で争われた朝鮮戦争の「戦争特需」が経済成長の起爆剤になったことをどうとらえればいいのでしょう。いまもなお米軍基地の脅威にさらされ続けている沖縄はどうでしょう。原発の隣接地に住む人々はどう思っているでしょう。大規模な大気汚染、公害、自然破壊を経験し、その被害を訴える人が今もいることをどう思うのでしょう……。
 こういう“細かい”ことは無視して、話を単純化する。そして「平和」にマイナスイメージを持たせる。細かい検証もしないで、戦後の非交戦状態、(建前上)武力放棄を貫いた時代が失敗であったかのように思わせる……。

 こういう乱暴かつ単純な論理を常套手段とする人々がいます。こんな言説を唱える人々です。
 「他国からの攻撃の脅威に備えて、日本も軍隊を持たねばならない。『軍事力の放棄』『平和主義』などは、“平和ボケ”した連中の唱える絵空事である!」
 こういう主義主張をもった人たちが、この意味合いで「平和ボケ」ということばを生み出し、使い始めたのではないか、という気がしています。


 冒頭の投書子や“平和ボケしてサッカーを見てる”というご友人が、このような主張をもっているとは思いません。なにしろ大ざっぱなことばです。たんに便利に使え、誰でも何となく納得してくれるから使っただけでしょう。
 しかし、嘘も言い続ければホントになるというように、深く考えずに「平和ボケ」なんて言っていると、確信をもって「平和ボケ」を排除したい人々−−強大な権力でもって国民を支配したい人々−−に、やすやすと絡め取られてしまう恐れがあります。
 そうして絡め取り、大きなうねりにしたい人たちが、いま台頭しています。考えすぎといわれるかもしれないけれども、警戒するに越したことはありません。

 民主主義が根付いているヨーロッパ各国でさえ、右派勢力が台頭しているといいます。日本でもそういう思想をもった人が都知事になり、ライオン首相も根っこは同じでしょう。歴史教科書を変えようという動きは大きくなり、君が代・日の丸は事実上強制されています。国民を監視する法案や、警備システムも強行されつつあります。
 こういうのを見過ごしていることが、「平和」に逆行する動きに対する緊張感、警戒感を失い、ただ現実の推移に流されているという意味で、真の「平和ボケ」といえるかもしれません。


 中米のコスタリカ共和国は、軍隊を廃止して50年、「積極的永世非武装中立」を宣言してからも20年になるそうです。アメリカからの政治的介入もあったそうですが、この方針は一貫して貫いてきました。
 中米という政情も不安定な地域で、なぜそんな政策を維持してこれたのでしょうか。首都・サンホセの市民にインタビューした記事があったので、一部紹介します。(「週刊金曜日」2002.4.26、409号)

「なんと全員が『軍隊を解散してその費用を教育や福祉に回したのは正しい』『軍隊なんていらないよ』と回答。『軍隊がないことに不安を感じる』と答えた人は誰一人いなかった。『軍隊はないほうがいい』理由を列記すると、次のとおり。
・(略)軍隊をもって周りの国に圧力をかければ、必ず自分の国が同じ目にあう。(略)
・武力は、問題が解決できず山積みになった結果使われる。大事なのは、そうなる前に話し合いで解決をはかること。(略)
・(略)世界の完全な平和は夢だと思うけど、相手を許す寛容の気持ちを持つことも大切。(略)」
「コスタリカ市民は、『軍隊がないから」平和に暮らせると言い、『軍隊がなくても』平和に暮らせるとは言わない。平和は毎日の生活の中で『創っていくもの』で、『平和を守る』という表現をする人もみあたらなかった」

 建前も含まれていることでしょうが、それにしても、無作為にインタビューした相手がそろいもそろってこのように答えたというのだから、しっかり意識を持った国民が育っている国なのでしょう。
 このような平和意識を浸透させ、また実践しているベースには、徹底した市民教育、平和教育があるそうです。

「平和は、法律や憲法がそれを取り決めるからあるものでも、すでに存在するものでもなくて、日々つくられていくものです。つまり平和は一定の状況であって、その状況をつくり上げるのは市民一人ひとりです。市民の一人ひとりが不正をなくし、飢えをなくし、教育や安全、男女平等を志向して、システムをつくり上げていく中で生まれてくるものが平和ですが、そういう考え方は、市民教育の中でつくり上げていくものだと思います」(「週刊金曜日」同号、コスタリカ駐日大使へのインタビュー記事より)


 「平和ボケ」などといういい加減なことばを使うのでなく、「平和とは何か」「平和のためになにをすればよいか」という教育を徹底する。その過程を経て、人々にとってあるべき政治体制、経済システム、教育体系などが築かれてゆき、将来の展望や希望も生まれてくる。そして「平和をつくり上げる」ことに努力をする姿勢も確立する。

 いま世間で「平和ボケ」といわれる現象・風潮を改善するのに、特効薬はありません。《徴兵制を導入する》ような、権力でもって一気に解決しようというのは、最も愚策です。ファシズムへの道を歩むだけです。
 たとえ回り道でも、一番大事なのは平和教育でしょう。
 それでは時間がかかりすぎる……のであれば、まずなすべきは、「平和」や「平等」や「公正」といった思想をもっていない大人たち−−裏取引ばかりする政治家、保身優先の官僚、金儲け至上主義の会社役員、そして、それらのおこぼれを預かろうとする多くの人々−−が、まず襟を正す、もしくは役職を退く。退かせる。これがまず第一にすべきことです。
 こういう不正を見過ごしながら、あるいはこういう連中が政治の中心にいながら、「平和」だの何だのといっても、およそ実現不可能でしょう。


 ということで、結論。

1)「平和ボケ」とは、第二次大戦後の日本の歩みを乱暴に否定することばであり、使う人の意図がどうであれ、ぼくはそのことばから全体主義的、軍国主義的なニュアンスを受け取る。だから使いたくないし、認めたくもない。

2)日本も右傾化する傾向にあるという意味で、真の意味での「平和ボケ」が進行しているかもしれない。それを解消するために、平和教育を徹底することが必要。まず第一歩は、「平和」を実践していない大人たちが、自らを反省し責任をとること。



追記)
(1)以上の意見も、U太郎くんがいる国のように、銃弾が飛び交い爆弾が破裂する現実の前では、それこそ絵空事かもしれないですね。
 そうなってしまったときに、どう解決していくというのか……。ぼくは答えを持っていません。意見する自信がありません。
 ただ、いま、ぼくがいる日本においては、少なくともそうならないように、ぼくも、U太郎くんも、周りのみんなも、「平和」を創るべく努力していかないといけない。これだけは力説したいです。

(2)《有事法制が成立しそうになった時も、ちゃんとそれに反対していた人たちもいたし、阪神淡路の震災時も多くのボランティアが駆けつけたではないか!果たして日本人の意識って平和ボケしてると言われるほど、他の国の人たちと違うのでしょうか?》という指摘は、確かにそうです。危機意識をもった人も、少なからず存在します。行動に移さないまでも、心の中で「戦争はいやだ」と思うのは自然なことでしょう。
 ただ、全体的に「なんでもいいじゃん」と、意識してない人のほうが多いように思います。
 あと、大震災後に「なにかしたい」「しなければ」とボランティアに向かった人の意識は、ともすれば、非常時には「国のために何かしなければ」と、行動を向ける先を誤る恐れがあるように思えてなりません。小林よしのりの本が若い世代に支持されているのが不気味です。
(ボランティアをした人たちを責めるのではありません。それは立派な行為だと思います。ただ、そういう純粋な意志を巧みに操り、利用しようとする“ずるい”連中に騙されないことを願うのです)


2008.8.12 追記)
 写真家の藤原新也氏が、著書「平成幸福音頭」(文藝春秋、その後「僕のいた場所」に改題し文春文庫所蔵)で、「平和ボケ」は自分の造語である、と書いていました。

 外から入ってきた情報に何のそしゃくも消化も加えることなく、そのまま通過させて自分の言葉だと錯覚したまま、やたら四方八方に垂れ流す“管”のような人間のことだ。そしてこのストロー人間は平成の世に入って圧倒的に増えている。

 そのような日本人の状態を『泰平ボケ』という言葉で言い表した。湾岸戦争時(うめざわ注:1991年の第一次イラク戦争)のまったく危機感のない日本人の無反応ぶりについて新聞の文化面でこの言葉を使って揶揄したのである。その直後、数誌の週刊誌がこの『泰平ボケ』という平成の時代に相応しいコピーを戦争絡みの記事のタイトルに換用してから、あっという間に流行語になり、昨今ではニッポン人、イクォール “泰平ボケ” “平和ボケ” ということになっている。

(同著「ボケの社会学」から引用)

 藤原氏の言葉通りであれば、「平和ボケ」という概念を提示したのは氏であり、右派勢力ではありません。(ちなみに藤原氏は、その言葉が流行ったことを不本意に思っているそうです。詳しくは同著参照)
 とはいえ、元々の意図から離れ、言葉が一人歩きをはじめたのは、やはり右派勢力と、加えてマスコミが飛びついたからだと感じています。

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