06/12/29 「いじめ問題」の問題点

 いじめ問題について、2つの文章を紹介する。どちらも示唆に富み、ぼくは全面的に同意している。

 1つ目は、ジャーナリスト・筑紫哲也氏のコラム。やや長めの引用だが、ご容赦いただきたい。

(1)いじめはいつの世にもある、という俗論は問題解決にとって有害である。金(恐かつ)とセックス(強制わいせつ)の比重が高くなっており、メールによるいじめなど昔はない。手口は残酷かつ陰険になっている。

(2)いじめ、それが原因の自殺について直近の関係者である家庭、親がその兆候を見逃したと責める声が多いが、これは相当に無理。大人、とくに親に被害を告げたくない心理は昔も今も変わらない。

(3)地域社会の教育での役割がしきりに説かれるが、これも万能薬ではない。いじめは少数(被害者)対多数(加害者)で起きることが多いから、加害者の保護者は多数派となり、事件の隠蔽、歪曲、過小評価に向かうことが多い。

(4)自分以外のだれかを責め、責任のたらい回しで議論が拡散してしまう教育論議では、「主犯」と「従犯」を決めろ、というのが私[注・筑紫哲也氏]の持論だが、いじめの場合、主犯は文科省−教育委員会−学校(校長、先生)という組み立ての教育システムだと私[注・同]は思う。いじめの「現場」が学校、通学中であることでも主たる責任があるが、この組織系統を通底しているのは、「なかったことにする」のが、それぞれの体面、業績評価を守るための必須の力学になっていることだ。文科省によれば、いじめ自殺はこの七年、ゼロ。つまり「なかったこと」になっている。

(5)いじめ被害に遭った子どもたちにとっての「地獄」はむしろ、それを訴えた後にやって来る。それは痴漢・レイプ被害の場合と酷似している。大人たちの隠蔽圧力があらゆる方面から働き、いじめられる原因が当人にも在ったのだろうと責められる。いたずら、からかいの軽度被害を大げさにしたと「うそつき呼ばわり」される。大人、級友のだれも信じられなくなり、精神的に失調を来たす被害者は一割はいるという推定もある。

(「週刊金曜日」No.636、2006年12月22日号「自我作古」)


 もう1つは、文芸評論家・斎藤美奈子氏のコラム「子どもに呼びかければいじめは解決する?」。(以下、引用はどちらも「DAYS JAPAN」Vol.4 No.1、2007年1月号、コラム「OUTLOOK」より)

 朝日新聞が「いじめられている君へ」「いじめている君へ」と題する連載を掲載し、文部科学省も「文部科学大臣からのお願い 未来のある君たちへ」という手紙をHPに掲載したことについて、斎藤氏は、「こうした緊急措置に意味がないとはいわない」と断りつつも、「なんかズレてんなという印象も持つ」という。

 死を選んだ子たちの中には遺書にいじめた子どもの名前を記す子もいる。それは復讐の自殺、いやちがうな、こうした死には昔からちゃんとした名前が与えられてきた。「抗議の自殺」だ。
 (中略)彼らは弱くて死に逃げたのではなく、死をかけて「この状況を何とかしてくれ」と訴えているのだ。だとしたら「君は一人ではない」「将来いいことがある」などとこっちから呼びかけるのは話が逆で、彼らの呼びかけを真摯に受け止め「わかった。君たちの訴えを無駄にしないから」と答える以外に解決への道を開く方法はないだろう。

 そして、これまで長い間、いじめられる側にも落ち度がある=被害者側の問題とされてきており、その構図はレイプやセクハラと似ている、と述べる。
 ならば、セクハラと同じ方法で解決していくしかないと続ける。

 それでも性犯罪が以前より表に出やすくなったのは、
(1)それが犯罪だという認識が世間一般にも知られ、
(2)行政や企業や大学にセクハラ相談室などのオフィシャルな告発の窓口が設けられ、
(3)加害者にも降格や免職などの社会的制裁が加えられるようになったためだ。
 上司から部下へのいやがらせも「パワハラ」という言葉によって、ようやく犯罪として認知されつつある。
 いじめの解決策も同じしかないように思われる。
(1)いじめとはスクールハラスメントという犯罪だと教え、
(2)いじめ相談室などの正式な告発の窓口を設け、
(3)加害側の子どもにも相応の指導を行う。

[注・改行を加えて読みやすくした]


 上記2つの見解を、みなさんはどう受け止められるだろうか。


06/12/12 「自転車は歩道」は、その場しのぎの改悪

 警察を中心に、自転車の歩道走行を認めようとする動きが強まっている。
 自転車は車道、というのが道路交通法の原則なのだが、現状はすでに、大半の自転車が歩道を走っている。
 しかし、自転車の歩道走行にお墨付きを与え、堂々とスピードを出すようになれば、歩行者の安全はますます損なわれる。歩行者と自転車の接触の恐れが高まることを、なぜ考慮しないのか。
 歩道は誰のためのものか。道路とは誰のためのものか。

 そうは言いつつ、ぼく自身も自転車で歩道を走ることが多い。ホントは車道を走りたいのだが、幹線道路だと、クルマがすぐ脇を高速で抜き去るため、あまりにもおっかない。路肩の小石に乗り上げてバランスを崩したところに、ダンプが走ってきたりしたら、即あの世行きだ。
 ぼくはまだ死にたくはない。だから、歩行者に最大限の注意を払いながら、歩道を走る。ルール違反と承知しながら、心苦しい思いをしている。

 車道を走る自転車のほうが、ドライバーが注意するため、かえって事故が少ない。歩道を走っていると、ドライバーが気づきにくく、交差点での接触が増える。−−という見解もある。(某掲示板で目にした。情報源は未確認)
 そういう可能性を無視してまで、「軽車両」である自転車を歩道に上げたいのは、どういう目的なのか。単にクルマの走行をよりスムースにということなら、人命軽視も甚だしい

 わずかなエネルギーで比較的高速で移動できる。環境に負荷を与えない。健康維持にも役立つ。駐車(駐輪)スペースも、クルマに比べればはるかかに少ない。
 環境問題、都市問題、健康問題を考えれば、そんな自転車のポテンシャルをもっと重視すべきだ。増えすぎたクルマ、特に自家用車の走行を抑制し、自転車やバス・電車の利用拡大を図ること。そのためにも、車道に自転車走行レーンを設けるのが本筋だと考える。


06/12/8 野菜が豊作、生産調整が始まる

 野菜が豊作で、産地では生産調整が始まっている。
 キャベツ畑をトラクターで走り、キャベツが潰れた跡が一直線に延びている写真が、新聞にの一面に掲載されていた(8日付「毎日新聞」朝刊)。

 こういう報道がされると、「処分するなんてもったいない」という声があがる。安い値段で出荷すれば消費者は喜ぶし、農家の収入にもなる。自治体が買い上げて給食で使ってはどうか…。そんな投書が、新聞に載るようになるだろう。
 でも、投書する前に、もっと農業の実態に目を向けてほしいものだ。

 産直に取り組んでいるような一部の農家を除けば、農家には価格決定権はない。出荷した作物が、農協によって市場で捌かれ、その代金が振り込まれて初めて、価格がわかる。
 植え付けから収穫まで何カ月もかかる。その間の天候が良ければ収穫が増え、悪ければ収穫は減る。高いからたくさん作ろう、安いから減らそう、なんて調整は、作付けの段階では不可能だ。ここが工業製品と大きく異なる点だ。

 全体的に豊作となり、値崩れが起きれば、出荷するだけ損をすることになる。段ボール代や輸送代などの経費のほうが、作物の売値より高くつくのだ。
 そんな中で「安く売れ」というのは、「農家は損をしてもいい。消費者が安く買えればそれでいい」と言うようなものだ。自治体が買い上げて…という意見も、けっきょく底値で買うなら、段ボール代は誰が負担するのか? 自治体が負担するとしたら、「農家を優遇しすぎだ」と言われないか?

 現在の大産地システムは、大量消費が始まった高度成長期に、政府の主導で進められたものだ。農家一戸あたりの耕作面積を増やし、つくる作物の種類を減らして、効率よく大量に生産するように指導してきた。これが、過剰生産による値崩れ、あるいは天候不良による価格高騰の大きな要因だ。
 こういう消費側の都合による生産システムを見直さない限り、「もったいない」事態を避けることはできない。

 3カ月かけて育てたのに、20分で処分した。むなしい−−(前出の記事)
 一番残念に思っているのは、キャベツをつぶしている農家自身だ。けれど、それをしなければ、生活が成り立たない。深い嘆息の上での行為を、軽々しく非難してはいけない。

※農業の実態を知りたい方へは、まずは農民作家・山下惣一さんのエッセイを読まれることをお薦めする。


06/11/10 最近の報道より

 書きたいことがあっても、タイミングを逃してばかり。
 今回はまとめて、雑感的に。

●いじめが原因と見られる自殺が相次ぎ、国会でも問題になる事態に。

 「いじめはあったのかないのか」「学校としては、いじめとは認識していなかった」などという議論の、なんと不毛なことか。
 複数による継続的な“嫌がらせ”に悩み苦しみ、死を選んだ子どもや、現に辛い思いをしている子どもにとって、「何をもっていじめと言うのか」なんてことには、何の意味もない。
 あったのかないのかなどと、くだらない議論をしているヒマがあったら、もっと本質に迫る議論をしろと、強く言いたい。

 少なくとも、校長や教育委員長が謝罪して対策を考えればいい、ということでないのは明らか。特定の誰かにだけ、責任があるわけじゃない。責任者を探し出し、糾弾し、罵声を浴びせるという構図は、形を変えた“いじめ”じゃないか。
 とりまきが何かのきっかけで離反し、いじめっ子が一転していじめられっ子になる、というのはよくあること。大人が似たようなことをしていては、しめしがつかないだろうが。
 こういう犯人探し、責任者糾弾が、このところ目に余る。

 はっきりいって、「いじめ」という行為そのものはなくならないし、なくせないだろう。けれど、いじめられる子どもを救い出すことや、いじめている子どもにその行為の意味を理解させることは、決して不可能ではない。

 いま求められるのは、世のすべての大人たちが、いじめが陰湿化し、いじめられる子が自殺にまで追い込まれている現実に、目を向けることだ。現実を直視し、子どもたちに寄り添い、彼・彼女らの心理に思いを馳せることで、はじめて対策が見いだされる。
 そういう努力をすることが、大人としての責務だ。

 ぼく自身は、競争競争と煽られ、一方で格差が生じている世の中のあり方にこそ、根本的な原因があると思っている。逆にいえば、そういう社会を変えていかなければ、今後も悲しい事件は続くし、人知れず悩んでいる子どもたちは救われない。

●高校での必修科目の履修不足が相次ぎ判明。

 詰まるところ、目的を完全に誤っている教育制度に欠陥がある。最大の目的を「受験」においているから、こういうことになる。
 新聞記事で読んだが、どこかの国では、大学には容易に入れるが、在学中の学習レベルが高く、きちんと学んで卒業するのは1/4程度だという。
 受験至上主義、学歴主義を捨て、大学を真に学びたい者のための組織に改革すればいいだけのことだ。

 生徒からは「きちんと履修した自分たちは不利」「補習を受けなければいけない自分たちも被害者」などの声が聞こえるが、なぜ「学習する機会が奪われた」と主張しないのか……という意見を、どこかのブログで読んだ。
 この視点がぼくにも欠けていたことを反省する。
 受験はあくまでも手段であり、目的ではない。

●タウンミーティングでのやらせが発覚。

 高校での履修不足を通して、教育者ですら「目的達成(受験合格)のためには手段は選ばず。バレなきゃOK」と考えていることが、よくわかった。
 タウンミーティングだって同じことだ。もとより、意図を持って始めたはずだ。世論誘導という目的のために、原稿を用意してサクラに読ませ、それを市民の声としてピックアップすることくらい、やってのけても不思議でない。
 タウンミーティングを始めた小泉政権とは、そもそもうさんくさいものだった。ゴマカシや論点のすり替え、世論誘導を繰り返し、社会と政治の「改悪」を繰り返してきた。後継の安倍政権も、方針はなんら変わらない。
 やらせがあったこと自体より、何のためにやらせをやったのか、その目的を見定めることのほうが、よっぽど大事だ。

 現政府は、今般のいじめ問題を逆手にとって、だから教育基本法「改正」が必要だ、と言い出すだろう。いまは「どうすればいじめを防げるか」というような話ばかりだが、与党政治家は徐々に、「他人に対してもっと思いやりを」「それが日本の伝統だ」「かつての家族や世間のあり方に見習うべき」「地域を、国を、もっと愛しよう」と語り始め、巧妙に世論を誘導していくだろう。
 いじめに悩み、苦しみ、死を選んだ子どもでさえ、目的遂行のための手段にしてしまう。それが現政権、いや、政治権力というものの実態だ。

●麻生太郎外務大臣が、日本の核保有論議で非難を浴びる。

 北朝鮮の核実験を非難する政府に、自らの核保有は否定しない大臣がいる。なぜそんなことが許されるのか、ぼくにはまったく理解できない。
 10/13にも書いたが、「我々も武器を捨てる(持たない)から、あなた方もやめろ」と迫るのが筋だ。それをするのが外交だ。
 なのに、わざわざ相手の挑発に乗って、外務大臣が「目には目を、脅すならこっちもやるぞ」と発言している。一見単細胞のようだが、実は周到にタイミングを見計らい、自らの役割を果たすためにやったに違いない。だからこそ安倍政権は恐ろしい。


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